田沼意次と松平定信 ― 日経MJ連載「未来にモテるマーケティング」21/12/27号
2022/1/10
NHKの人気歴史番組「知恵泉」に出演した。
江戸幕府の対照的な施政者、田沼意次と松平定信を現代に照らし合わせ、マーケティングの観点から解説する役割である。
私の意見では、田沼意次は「イノベーションリーダー」。
老中就任は54歳と政治家としてベテランの域だったが、
幕府の経済体制が壁にぶつかる中、さまざまな変革を急速に行った。
利益が高い付加価値製品をつくるためにふかひれやほしあわびなど海産物の貿易を奨励し、
新しい税源を確保するため同業者組合の「株仲間」を公認。
スムーズな通貨の流通を図り、南鐐二朱銀を新鋳した。今でいえば、仮想通貨を統一して流通しやすくするようなものだ。
蘭学者の平賀源内を支援したのは、技術ベンチャーへのエンジェル投資といえるだろう。
ただ、これだけの改革をナンバー2が行ったのだから、反発も大きい。
変革が急激すぎたのか、最後は失脚し、蟄居(ちっきょ)を命じられてしまった。
ただ、意次は「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」の歌のように、
賄賂にまみれていたかというと、そうではないと私は見ている。
老中になる前、意次は汚職を行った人を評定し、幕府高官を何人も失脚させた。
老中になれたのはその公正さが高く評価されたからだ。
賄賂にまみれるどころか、緻密に公正さを期していたのではないだろうか。
一方、意次に代わり28歳の若さで老中に就任したのが、エリートの松平定信である。
彼の寛政の改革で最も有名なのは、緊縮財政の徹底だ。
借金を帳消しする「棄捐令」のほか、インフラ整備のための積立基金である「七分積金(しちぶつみきん)」、
江戸から故郷へ帰ることを奨励する「旧里帰農奨励令」などの改革を進めた。
しかし、思うように効果があがらず、わずか6年で失脚した。
共に失脚した意次と定信だが、何の功績も残さなかったわけではない。
例えば定信が始めた「七分積金」は明治維新後に発見され、多様なインフラ整備の原資として大きく貢献した。
現在の東京都健康長寿医療センターの前身である「養育院」はそのひとつだ。
養育院の初代院長を務めたのは渋沢栄一だ。
彼は定信が行った緊縮財政政策に非常に傾倒していて、偶然、定信が残した七分積金を引き継ぎ、
後世で活用することになった。
こういう縁があるから歴史は面白い。
世の中は、社会を改革するイノベーターが発展させたように見えるが、それだけではない。
意次のようなイノベーターの後には定信のような社会を安定させようとする「スタビライザー」が登場し、繰り返している。
表面的には相反する考えの持ち主同士が、結果として、未来への大きな流れを作っているのである。
現代も同じだ。
デジタル世代とアナログ世代が振り子のように行きつ戻りつしながら、次第に合流し、大きな流れを作っていく。
意見の異なる世代が、お互い反目することなく協力しあうことが大切だ。
そして、道徳と経済を合一した渋沢のような人物が活路を開けば、日本はまだ巻き返せる。
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