信長も恐れた武田家の盛衰が、われわれに語りかけるもの[歴史街道2018.8月号]

2018/8/1

甲斐を基盤とする武田家は、いかにして「戦国最強」を謳われるほどの軍隊に変貌したのか。その栄光から一転し、織田信長に破れたのはなぜか。マーケティングの視点から、武田家の盛衰に迫る。

 

信玄が最も重視したこと

甲斐の武田家が戦国大名化するのは、武田信虎の代とされます。

それは15歳の信虎が叔父の油川信恵を撃ち破ったときから始まりましたが、信虎のやり方は結構荒っぽく、力ずくで次から次へと敵と戦っていったような印象を受けます。

結局、家臣の支持を失って、天文十年 (1541)に追放され、後継者として嫡子の信玄が担がれました。

これは現代にも通じるもので、創業経営者にしばしば起こる典型的な問題です。

初めは頑張って会社を拡大させるのですが、だんだんと「俺が頑張ってみんなを食わせているだから俺の言うことを聞け」という態度になり、暴君化して社員が離れていく。そこで自らの間違いに気づけば、会社を立て直すことができます。

武田家の場合、信虎が心を入れ替えることはなく、「社長」を交替させて豪腕創業者の弊害を克服したわけです。

 

といっても、武田信虎と信玄父子のキャラクターは似ているように、私には映ります。信虎の性格を、信玄がそのまま発露している感じさえするのです。

しかし、信玄には信虎のような暴君のイメージがありません。それは父を反面教師にして自らを戒めたからでしょう。

私は信虎と信玄の二人で戦国大名・武田家を創業したと 捉えていますが、武田家を「戦国最強」と謳われるまでに発展させたのは、信玄に負うところが大きいことは言うまでもありません。

マーケッターの観点で見るとその強さの源泉は「情報力」にあったと考えられます。

信玄は幼少期、父が弟・信繁を溺愛するのを見て、あえて弟より賢く見えないように振舞ったり、16歳で初陣に望んだときは撤退したと見せかけておいて、敵に焼き討ちをかけたりしています。

情報に対する態度が生まれながらにして高かったと思われますが、情報という観点から見たとき、武田家当主となった信玄がやったことは見事でした。

たとえばスムーズな情報伝達のために、狼煙の拠点をいくつもつくっています。これによって遠隔地から情報が早く届き、敵の一歩先を行くことができます。

また、信玄は勢力拡大に伴い、動員力が1万人から3万人に増えていますが、こうした家臣団の拡大においても、情報源となる人物を積極的に採用しているように見えます。

 

 

たとえば軍師として有名な山本勘助。彼は駿河の今川家に仕えたこともあって、独自の情報網を持っていたはずです。信濃平定に活躍した武田幸綱も、同様に情報網を持っていたことでしょう。

このように外部の人材を取り込むことによって、武田家の情報力は強化されていったと思います。それから、自らが滅ぼした諏訪頼重の娘を側室に迎えたことも、注目に値します。頼重の娘を大事にすることによって、諏訪の旧家臣を武田家に組み込もうとしたと言われていますが、 情報という観点から見ると、もう少し踏み込んだ意味があったと思います。

頼重の娘お付きのものを通して、諏訪の旧家臣たちに情報を発信することができるし、彼らの情報を得ることもできる。つまり象徴的な意味だけでなく、具体的な情報のやり取りという点でも、効果が期待できたのです。

さらには、単に情報を集めるだけでなく、的確な情報を有力な家臣の中で共有できるようにしたのではないでしょうか。信玄は、合議的な軍事をしたと言われますが、現代風に言えば組織内の情報コミュニケーション体制を整備したと言えます。これも見事です。

情報発信という点では、戦に勝つと、信玄は手紙を各地書に送って戦勝を宣伝しています。これが「信玄は強い」よいうイメージを植え付ける一助となったはずです。

若い頃は大敗を喫したこともあり、必ずしも無敗ではなかった信玄が「最強」と見られるようになった背景には、連戦連勝をアピールし続けたことも影響していると思います。

こうしてみると、信玄の行動は、ひとつひとつが情報に裏付けられたものと言いたくなるほどです。「情報の収集」「情報の操作と発信」「 情報のスムースな伝達」のいずれにも長けていたことが、「 戦国最強の武田家」を生み出したのではないでしょうか。

信玄の鋭敏な情報感覚がどこから生まれたかは、見えづらいところがあります。

ただ、幼少期の後見人に名将の板垣信方がつけられ、彼から武道を学んだようですし、学問の面では、岐秀元伯という臨済宗の僧に学んでいるなど、優れたメンター、すなわち恩師をつけられて育ったことと無関係ではないはずです。

 

時代の変革期をいかに乗り越えるか

しかし、信玄の後を継いだ勝頼は、天正三年(1575)の長篠の戦いで織田・徳川連合軍に敗れ、天正十年(1582)には滅びてしまいました。「戦国最強」と謳われながら、なぜ、これほどまでにあっけなく滅びたのでしょうか。

甲斐、信濃で勢力を拡大した武田家を現代で例えるならば、地域の商圏においてビジネスの仕方、顧客の獲得の仕方が上手く、そこでナンバー1になった会社と捉えればいいでしょう。

それが意味するのは、限られた商圏の中だけで、戦略を考えていたということです。だからこそ、地域でトップに立てるのです。

ところが、武田家が全盛期を迎える頃、大航海時代というグローバル化の波が押し寄せ、時代は変革期に入っていました。それを物語る端的な例が鉄砲です。鉄砲は戦のあり方を変える力を秘めた、外国からの「新しい技術」でした。

このような時代には、周囲だけを見ていては駄目です。 海外を含めて、広い視野で情報を集め、分析し、判断する者こそが時代に応援されます。

そういう観点から見ると、日本の中枢を押さえることで、宣教師らと接することができ、よりグローバルな視野で技術および情報を集められた信長と、地方にあって海外の情報が限られていた武田家の違いは、大きいと言わざるを得ません。

武田家が内包した限界は、今の時代にも重なるものがあります。

日本では2025年から、国内の消費額が減り始めることが予想されています。そのとき、地方で力のある強い会社でも経営が厳しくなり、周辺地域の会社との間で食い合いが加速化すると言われています。

一方、世界を見渡すと、IT 技術が浸透してきています。ビッグデータ、AIは既に脚光を浴び、私はおそらくブロックチェーンが重要になるとみていますが、いずれにしても、情報を制する者が富を制するようになる。

そういう時代にあって、新しい情報技術に備えつつグローバルに戦う会社と、地域戦を繰り返す会社の差は、決定的と言っていいでしょう。

武田信玄は、自らの遅れを自覚していたのかもしれません。

永禄十一年(1568)、信玄は同盟する北条家の反対を押し切り、今川氏真を攻めて、駿河国を手に入れました。それは、何が何でも駿河を取らなければならないと認識していたからでしょう。

なぜ、それほどまでに駿河を欲したのか。それは海へのルートを確保することで、情報力が格段に大きくなると考えたからではないでしょうか。

つまり駿河を押さえて海とつながり、新しい時代をキャッチアップしようとした。

しかし、それほどまでに貪欲にキャッチアップしようとしても、 武田家は滅びてしまった。それは、時代の変革期を乗り越えるのが、いかに難しいものであるかを、暗示しています。

では、武田家が生き残る道はなかったのか。私は同盟戦略が鍵であったと考えます。要するに、たとえ劣勢に置かれたとしても、強いところと組めば滅びなかったはずなのです。

しかし武田勝頼は、当時最大勢力を誇る信長を相手とし、隣国の北条家とも戦うこととなってしまい、結果として、時代に選ばれませんでした。

時代が大きく変わる中で、たとえに不利な情勢であっても、戦う意欲を失ってはいけません。それは戦国時代も今も同じで、ファイティング・スピリッツは重要です。

ただし時代観を間違えると、武田家のように、一気に滅びる可能性があります。自分が頑張ればなんとかなるという発想を捨てて、誰を味方にするか、どの勢力と組むかを考えるべきでしょう。

2025年以降の経済情勢において、中小企業や地方の企業は、武田家の歴史から多くを学べるのではないでしょうか。



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