創業者は父・輝宗、では、二代目の政宗は・・・[歴史街道2018.11月号]

2018/10/1

若くして家督を継いだ伊達政宗は、自らの力で道を切り拓いた「創業者タイプ」と見られがちだ。
しかし、神田昌典は、真の創業者は父・照宗で、政宗は器用な二代目と語る――。

父・輝宗が描いたビジョン

伊達政宗は仙台藩の初代藩主とされているので、一般的には創業者とイメージで捉えられていると思います。

しかし、「政宗の父・輝宗を起点とする伊達家の興隆」という視点から見ることによって、政宗の果たした役割がよく分かるのではないかと私は考えます。

天文十三年(1544)に生まれた輝宗は、天文十一年(1542)生まれの徳川家康とほとんど年齢が変わりません。天下人となった豊臣秀吉が天文五年(1536)生まれですから、秀吉よりは少し下の世代といえるでしょう。

輝宗が家督を継いで伊達家の当主となったのは、永禄六年(1563)、もしくは永禄七 年(1564)から八年(1565)にかけてと、諸説あるようです。

いずれにしても、だいたい20年ぐらいかけて、輝宗は伊達家を立て直していくわけですが、その過程で「まず奥羽を統一し、それを足場に中央に進出する」というビジョンを描いて行ったのではないでしょうか。

だから、周辺の戦国武将に影響力を放って勢力を広げる一方で、 天正元年(1573)と天正五年(1577)には、織田信長に鷹を贈るなどして、中央の有力者との外交も手がけたのでしょう。

ただし輝宗は、自分の代で中央進出が成就するとは考えていなかったでしょう。輝宗は彼のビジョンを政宗に引き継がせるべく、積極的に帝王学を授けているからです。

たとえば、レベルの高い人を選びに選び、教育係の僧侶に虎哉宗乙を招いています。加えて片岡小十郎景綱という、きわめて有能な家臣を守役につけました。

こうした教育は、非常にうまく行ったのではないでしょうか。

政宗は家督を継いだ翌年の天正十三年(1585)で小手森城を落とした折に、捕らえられた敵方は男女問わず、牛馬まで皆殺しにしました。これは「逆らうと恐ろしい武将」というイメージを流布させることで味方の離反を抑え、敵が畏怖するようにイメージ戦略を実行したものといえます。

そしてこの合戦後、伯父の最上義光に対する手紙の追伸部分に「これは嘘だと思われるだろうが、真実である」と書いています。手紙で最も注目されるのは追伸で、巧みに相手を牽制しているのです。

こうした事例は、若き政宗が堂々たる戦国武将に成長したことを物語っています。

また三春城主・田村清顕の娘を朝胸が嫁に迎えたのは十三歳の時で、かなり早い。そこにも、輝宗が政宗に大きな期待を寄せていたことが感じられます。

伊達政宗6

 

マルチプレイヤーであり、理想主義者

伊達政宗が家督を譲られたのは、十八歳のとき。この若さで輝宗が伊達家の当主に政宗を据えたのは、すでにレールを敷いていたからだと考えられます。

つまり、政宗は創業者タイプに見られがちですが、本当の創業者は輝宗であり、政宗自身は父のビジョンを受け継ぎ、伊達家を発展させた二代目、というのが、経営コンサルタントしての私の意見です。

二代目というと、創業者に比べてレベルが落ちるように感じるかもしれませんが、決してそうではありません。

政宗はマルチプレイヤーとして、抜群の能力を有していました。器用で、オールラウンドに、どんなことにも対応できることが、政宗の最大の能力だったと、私は評価しています。

 

天正一八年(1590)の小田原攻めに遅参した政宗が、豊臣秀吉に潰される危機を乗り切ったのは、マルチプレイヤーとしての能力がものをいったからではないでしょうか。

政宗は武略だけでなく政治的嗅覚にも優れ、だからこそ、ギリギリのタイミングで秀吉への臣従を決断し、さらに死装束を着ることで秀吉の関心を得ることもできたのです。

同時にこの場面では、創業者ではなく二代目だったこともプラスに動いたはずです。

伊達政宗9

例えば武田信玄のような創業者タイプであれば、強者に屈しないところがあり、それは目線に現れたりします。秀吉がそれを見抜いたら、潰される可能性は大きい。

その点、政宗は違いました。政宗が秀吉に仕えた八年ほどの間、辛い宮仕えを我慢したことを含めて、彼は創業者マインドではなく、二代目マインドを持っていたと思います。

おそらく秀吉と政宗の関係は、熟練経営者とそれに警戒されつつも可愛がられる二代目若社長、といったところではないでしょうか。

政宗は青年期に武将としてデビューを飾り、壮年期は政治家として政治や外交を行い、晩年は文人として存在感を発揮しました。

では、そのうちのどれが政宗の真髄なのでしょうか。

武将としての活躍は、いうまでもなく一流でしょう。また、天下統一後の平和な時代に入ると、仙台を基点、民のための治世を推し進めた点で、政治家として一流だったことは間違いありません。

しかし政宗はリアリストというよりも理想主義者であり、文人的な資質が強いと、私は感じます。

特に晩年がそうなのですが、「美」の世界での活動が多くなりました。葬られた時の副葬品として 見事な漆塗りの筆箱が入れられたことは、「美」の世界の人だったことを物語っているように思います。

また、教養も相当なものでした。「千代」という名前だった地を「仙台」に換えましたが、唐の韓こうの詩「同題仙游観」にある「仙台初見五城楼」から取ったと言われます。唐詩にも造詣が深かったわけで、他の武将にはあまり見られないことでしょう。

 

なお、「仙台」は先人の理想郷という意味だといいます。そうだとすれば、武将、政治家の発想ではありません。

現代で例えると、政宗は西武流通グループの代表だった故・堤清二氏と似たキャラクターとい言えるでしょうか。

堤氏は能力のある経営者であると同時に、詩人でもあり、素晴らしい文筆家でしたが、本当に興味があったのは詩や文筆のほうだったと思われます。案外、政宗も本心では、文人を志望していたかもしれません。

武将、政治家としての役割を担わされた政宗は、父のビジョンのもとに活躍しました。しかし、文人としての素養があったと見るならば、政宗の心の奥に秘めた悲哀に思いを致さずにはいられません。

輝宗・正宗父子が語りかけるもの

伊達政宗は、父・輝宗のビジョンを忠実に信じて生きたと思います。

輝宗が畠山義続の人質になったとき、助けられなかったことが負い目になり、父のビジョンを実現させたいと考えたようにも思えるのですが、いずれにしても輝宗の構想の延長線上に、政宗の仙台藩があり、政宗の息子・忠宗の代で出来上がった仙台の町があります。

伊達政宗7

いわば孫の代になって、輝宗のビジョンが結実したと言えるでしょう。三代を貫くビジョンを持ったところに、政宗という人の力量を感じます。

経営の観点で見たとき、オーナー経営者が三代続いて伸びた企業は、盤石になるところが少なくありません。

輝宗のように創業者が早い段階で死ぬと、息子が小さい場合は妻が経営を継ぐケースも多く、成長した息子にバトンタッチをします。この息子が有能だと、企業は大きく伸びます。

伊達家のように二代目が有能だった場合、創業者の父が早くに亡くなったら、息子が創業者のビジョンを掲げ、会社をまとめていくケースが結構あります。

創業者が生きている間は、若い二代目に対して、「なんだこいつ」と社員が思ってしまいがちですが、創業者が亡くなっているので、誰もが疑わずに会社が一丸となれる。

 

息子が名経営者の場合、創業者は早く身を引いた方が会社は発展するものです。創業者の輝宗が早くに没したことは、本人の意図せざるところでしたが、それは伊達家の発展に大きく寄与したのではないでしょうか。

それよりも何よりも、私が輝宗を高く評価するのは政宗の才能を見抜く力を持ち、その才能を生かすためにコミットメントしたことです。これは時代の変革期に有能な子を持った父の所作として最高でした。

世界を見ると輝宗・政宗父子のようなケースは少なからず見つかります。例えばイサム・ノグチという彫刻家がいます。彼が彫刻の分野で「この人あり」と言われるまでになれたのは、子供の時に才能を見出したレオニーという母親のおかげでした。

天性の才能を持って生まれた子供は、親が見抜かなければ、それを伸ばすことができないのです。

政宗自身の魅力もさることながら、私がその人生から読み取るのは、「才能のある子供を持った父(あるいは母)の役割が、いかに重要か」ということです。

その意味で、輝宗は立派でした。こういう人が時代を作る次の世代を育てられるのです。

子供の才能を見抜き、育てられるかどうか。あるいは孫の才能を見抜いて、育てられるかどうか。それは、変革期の現代においても重要なことなのではないでしょうか。



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